古代の神話と聖地を巡る

勧学会

令和7年6月

◆ 率川神社 (いさがわじんじゃ)について 奈良市内にある率川神社は、飛鳥時代の593年に創建されたと伝えられています。 当時の有力者であった、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が、天皇の勅命によって建てた神社です。

ご祭神
・中央に媛蹈輔五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと):初代天皇である神武天皇の皇后さまにあたる女神様
・左側に父神の狭井大神(さいのおおかみ)
・右側に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)

三柱の神さまが一緒におられる様子から「子守明神(こもりみょうじん)」として子どもの健やかな成長を願う人々の信仰を集めてきました。

この神社は、奈良時代の古い記録『延喜式(えんぎしき)』にも「率川坐大神御子大神社(いさがわにますおおみわのみこのおおかみのやしろ)」と記されています。 本殿は三つの社殿が並び建つ珍しい形式で、奈良県の有形文化財にも指定されています。 大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社でもあります。

◆ 三枝祭(さいくさのまつり) 一通称:ゆりまつり 毎年6月17日に行われているのが、三枝祭(さいくさのまつり)です。 別名「ゆりまつり」とも呼ばれ、神様に笹百合(ささゆり)を捧げて、疫病退散や国の平安を祈るお祭りです。 このお祭りは、飛鳥時代から続くとされており、『大宝令(たいほうりょう)』にも記されているほど、由緒ある神事です。

主役の女神・媛蹈輔五十鈴姫命は、三輪山を源とする「狭井川(さいがわ)」という清らかな川に住んでいたと伝えられています。 この狭井川の流域にはかつて笹百合が群生していたと言われています。 また「さる」とは笹百合の古名であるそうです。

近年、自然の笹百合が減ってきているため、大和の笹百合を守るために大神神社が苗を育成し、この神事に供えられます。

お祭りでは、笹百合の花を飾ったお酒の樽(「総(そん)」や「缶(ほとぎ)」と呼ばれます)を神前に供え、巫女(みこ)が花を持って舞を奉納します。

また、神さまへのお供え物(神饌)は、黒木(皮付きの木)で編んだ台に乗せ、柏の葉で編んだ蓋をかぶせてお供えするという、古式ゆかしい形式が守られています。 神饌は熟撰(じゅくせん:調理されたもの)を供えます。

内容:飯、ワカメ、餅、あゆ、鯛、堅節、かます、いか、あわび、枇杷、大根、牛蒡、栗、栢

◆ 笹百合 (ささゆり)について

笹百合(Lilium japonicum)は、日本の本州中部から九州南部にかけての山あいに自生する香りのよい野生のユリです。

・名前の由来は、葉の形が笹に似ていることから。 ・5月下旬から7月にかけて淡いピンク色の花が咲きます。 ・かつては人里近くでも見られましたが、開発や乱獲により、今では大変貴重な花です。 ・日当たりがよく、ほどよく湿った場所を好みますが、夏の直射日光には弱いため、半日陰が理想です。 ・花を咲かせるまでに、6年以上かかることもあり、育てるには根気と自然への配慮が必要です。 ・地下茎が浅くて傷みやすいため、植え替えはとても慎重に行わなければなりません。

古代中国の薬学書『神農本草経』にも登場し、邪気を払い、内臓や気血の働きを整える薬草とされてきました。 近年の研究では、香りに殺菌効果やリラックス効果があることも分かってきています。

笹百合をもって舞う巫女 ヒゲカズラを戴く
神饌

◆ 山辺の道 – 日本最古の道を歩く

大神神社の境内を南北に貫いて通る「山辺の道(やまのべのみち)」は、日本で最も古いとされる道のひとつです。この道は、現在の奈良県桜井市から奈良市へと約35km続いており、4世紀頃にはすでに整備されていたと考えられています。 『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古代文学にも登場しており、古代人たちの暮らしや祈りと深く結びついてきました。 道中には、箸墓古墳(はしはかこふん)をはじめ、景行天皇陵(けいこうてんのうりょう)や崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)など、歴代の王や有力者の大きな古墳が点在しています。 また、周辺には纏向遺跡(まきむくいせき)や布留遺跡(ふるいせき)といった、日本の国家のはじまりを示す重要な遺跡が見つかっており、この道が古代国家の幹線道路であった可能性もあるのです。

山辺の道を歩きながら、自然の風景や歴史にふれてみると、古代の人々の暮らしや祈りが今にもよみがえるように感じられます。現代の道とは違い、静かな田園や山のふもとをゆったりと歩く道のりは、まるで古代へのタイムトラベルのよう。ぜひ、心をすこしゆるめて、この道とその背景にある歴史に思いを馳せてみてください。

◆ 大神神社周辺の歴史 – 三輪山とともに歩んだ人々

この地域には、はるか昔から人々の営みがありました。

  • 約2万8千年前〜1万2千年前の後期旧石器時代、すでに人がこの地に住んでいた痕跡
  • 約7千年前の縄文時代前期には、三輪山のふもと(三輪遺跡)で人々の活動が活発に
纏向遺跡出土 古墳時代農具の鍬を綿に加工したもの

その後、弥生時代に入ると、初瀬川や寺川の流れるこの地域には、大福遺跡・芝遺跡・纏向遺跡などの大きな集落跡が次々と見つかるようになります。稲作が始まり、人々の生活がますます豊かになっていった時代です。 やがて3世紀頃から始まる古墳時代には、権力の象徴ともいえる大型古墳が築かれるようになります。特に有名な箸墓古墳は、古墳時代の初めを代表する遺構であり、近くには茶臼山古墳(ちゃうすやま)や行燈山古墳(あんどんやま)など多くの古墳があります。

◆ 古代の王たちの宮があった場所

この一帯には、古代の王たちの宮(みや=都や王宮)があったと考えられています。 古い文献には、「磯城(しき)」「纏向(まきむく)」「泊瀬(はつせ)」「磐余(いわれ)」などの地名とともに歴代の大王(おおきみ/のちの天皇)の宮があったという記述があります。 これらの地域では、まだはっきりとした宮跡と思われる遺構は発見されておりませんが、桜井の地が古代王権の中心であったことが推測されています。

その後、飛鳥時代(7世紀ごろ)に入ると、古墳の規模は小さくなり、より簡素な形式のものが築かれるようになりますが、古代の政治や文化の拠点としての重要性は変わりませんでした。

纏向遺跡では、3世紀前半頃の遺跡から国内最大級の建物が発掘され、柱間や出土品から何らかの祭祀を行っていた建物と見られています。

◆ 古墳ってどんなもの?

「古墳」とは、3世紀後半から7世紀ごろにかけて造られた支配者たちのお墓のこと。特に当時の王や豪族の墓は非常に大きく立派で、彼らの政治力・経済力・人を動かす力を象徴している。

この時代は稲作の発展によって人々がまとまり、大きな社会や国の形ができはじめた時期でもあり、古墳の存在は社会の統合と王権の成立を表している。

◆ 古墳の種類と形

  • 前方後円墳:前が四角、後ろが丸い形(例:箸墓古墳、大仙陵古墳)
  • 円墳・方墳:円形や四角い小さめの古墳
  • 上円下方墳:上が丸く下が四角という珍しい形 ※形や大きさは地域や時代、被葬者の身分によって異なる

◆ 出土品に見る古代の暮らしと価値観

【武器・武具】 鉄の刀、矛、鏃、甲冑などは軍事力の象徴。馬具は支配層の証。

【装身具・宝物】 勾玉や玉の装飾品、銅鏡(輸入品)は権力や外交を表す。

【土器・埴輪】 埴輪は人や馬の形、須恵器は実用品。副葬品として使用。

【祭祀具】 銅鐸や鏡などは神聖なものとして神事に使われた。これらの品々は死生観や農耕・戦・祭りの文化を反映し、朝鮮半島や中国との交流も見られる。

◆ 箸墓古墳 –– 前方後円墳のはじまり

奈良県桜井市の纏向遺跡にある箸墓古墳は、全長約280mの大規模な前方後円墳。3世紀中ごろの築造とされ、古墳時代の始まりを象徴する。伝説では、媛蹈輔五十鈴姫命の母神・倭迹迹日百襲姫命が葬られたとされる。

◆ 倭迹迹日百襲姫命と神話の物語

『日本書紀』では、百襲姫に神が降り、大物主神を祀るよう告げた。姫は大物主神と結ばれたが、神は夜にしか現れず、ある日姫が正体を見ようとすると、神は小さな蛇となって現れ、姫は驚き箸で自らを突いて亡くなったという。この伝説が箸墓古墳の名の由来とされる。

◆ 古墳と稲作の関わり

~お米づくりが生んだ「古墳社会」~

  • 稲作は約2300年前に九州から伝来し、徐々に全国に広まった
  • 稲作には水管理など協力体制が必要で、リーダーや統率者が登場
  • 水への感謝から信仰・祭祀が発展し、社会の仕組みとなった
  • 古墳は余剰労働力や組織力の表れであり、稲作定着地域に集中
  • 古墳は信仰の場であり、共同体の証でもあった
  • 箸墓古墳には「昼は人が、夜は神が作った」との伝承も
  • 古墳は王の墓であると同時に、稲作社会と信仰の記録でもある

· 稲作には、チームワークが必要!

たとえば、お米を育てるには、水の管理がとても大切です。 ・田んぼに水を引くための水路(すいろ) ・水をせき止めるための堤(つつみ) ・村全体での灌漑(かんがい=水の配分)の計画 ・それを保つための労働力と調整役

これらは、一人の力ではとてもできません。村全体で協力して行う作業だったのです。こうして自然と、村のまとめ役(リーダー)=統率者が必要になり、社会の中に影響力を持つ人が生まれていきました。

· 自然への感謝と信仰

また、水は自然からいただくもの。人びとは、水の恵みに感謝し、山や森、水源地に祈りをささげるようになりました。

このような行いが、やがて地域の信仰や、神様をまつる祭りのかたち(祭祀)へと発展していきます。つまり、稲作は単なる食料づくりではなく、村や社会の仕組みをつくる土台でもありました。

· 稲作が支えた「古墳社会」

稲作が発展し、社会がまとまっていくと、やがて 大きなお墓=古墳(こふん) が作られるようになります。古墳をつくるには、たくさんの人手が必要です。稲作の忙しい時期(田植えや収穫)を避けて、農閑期に行われたと考えられています。

つまり、古墳は、その地域に余った労働力と組織力があった証拠です。そして同時に、指導者(首長や王)の力の大きさを示すものでもありました。

実際に、大きな古墳は、稲作がしっかりと定着していた地域に集中しています。逆に、東北の一部など、稲作があまり広がっていなかった地域では、大型古墳は少ないのです。

· 古墳は信仰の場所でもあった

古墳は単なるお墓ではありません。そこには、稲作社会を支えたリーダーと、地域の人々の信仰の心が込められていました。古墳づくりは、村の人たちが一緒に力を合わせて行う 「信仰のかたち」=共同体のあかし でもあったのかもしれません。

『日本書紀』には、大神神社のそばにある「箸墓古墳(はしはかこふん)」について、こんな言い伝えがのこっています: 「この墓は、昼は人が作り、夜は神が作った」 これは、古墳が人の力と神の力が合わさってできた、と信じられていたことを表しています。

· 古墳から見る「日本のはじまり」

稲作とともに生まれた社会は、やがて指導者の登場・信仰・共同体の成立へとつながり、古墳という目に見えるかたちで残されていきました。

古墳は「古代の王のお墓」であると同時に、稲作を中心とした村の人びとの生活と信仰の記録でもあるのです。

◆ 大神神社とは?

奈良県桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)は、日本で最も古い神社のひとつです。古代では神といえば三輪神を指していたことから、「大神」は「おおみわ」と読みます。昔から「三輪明神(みわみょうじん)」「三輪大神(みわのおおかみ)」とも呼ばれてきました。 創建は神代(かみよ)=神話の時代までさかのぼるとされ、『古事記』や『日本書紀』にもその由来が記されています。本格的に神社として整備されたのは、今からおよそ2千年前、崇神天皇(すじんてんのう)の時代と言われています。

◆ ご祭神はどんな神様?

ご祭神は「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)」です。 これは「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の穏やかで平和な魂(にぎみたま)とされ、水や農耕、病気よけ、酒造り、そして国家の平和を守る神様として、古くから信仰されてきました。 大物主大神は蛇の姿であらわれる神様としても知られています。

◆ 神様の子孫がまつりを行った

古くから、神様の意志を人間に伝える存在「神子(みこ)」や、神様の血筋の人々が、まつりを執り行ってきたと伝えられています。 なかでも「大田田根子(おおたたねこ)」という人物が、祭りの役を担った最初の人とされます。

◆ 神社の本殿がない?

大神神社には、ふつうの神社にある「本殿」がありません。 なぜなら、背後にある「三輪山」そのものがご神体(神様が宿る山)だからです。 神様が宿る山のことを「神奈備(かんなび)」と言います。 綺麗な円錐の形をしている特徴があります。奈良では春日大社の三笠山も神奈備と言われています。

このように、自然の中に神様を感じてお祀りするのは、とても古い信仰のかたちで、日本の神社の原点ともいえる姿です。三輪山は今でも神聖な山とされており、自由には入れない「禁足地」となっています(現在は申込制で登拝が可能)。

大神神社 拝殿

◆ 三輪山の磐座(いわくら)

三輪山には、神様が降り立つとされる岩「磐座(いわくら)」が三ヶ所あります。

・辺津磐座(へついわくら) ・中津磐座(なかついわくら) ・上津磐座(こうづいわくら)

これらは山の中で神祭りが行われていた場所で、古代の信仰のかたちを今に伝えています。

磐座に似た言葉に、「磐境(いわさか)」があります。 神様をお祀りするために自然石を敷き詰めて作る聖なる領域のことです。

また、聖地に常緑の聖なる木を立て、神様の依代にすることを「神籬(ひもろぎ)」と言います。

山神遺跡 辺津磐座の一部とも言われる

◆ 発掘でわかったこと ― 山神遺跡・禁足地からの出土品

【禁足地】 拝殿のミツ鳥居奥の禁足地で防災工事の際に祭祀の奉納品が発見されました。

  • 子持勾玉(こもちまがたま):豊穣や繁栄を祈るためか
  • 滑石製模造品
  • 坩(つぼ)
  • 杯(つき)

【山神遺跡(やまのかみいせき)】 大正7年(1918年)、三輪山のふもとから古代の祭祀で奉納されたものが発見されました。

  • 小さな銅鏡
  • 勾玉(まがたま)
  • 鉄片
  • 滑石製の玉や農具の模型 など

・禁足地出土品:古墳時代 5〜6世紀 ・山神遺跡出土品:古墳時代 4〜6世紀

これらは、農作物の豊作を祈る祭りが行われていた証拠と考えられています。 出土年代は4世紀後半から6世紀前半とされます。

◆ 社殿と三ツ鳥居(みつとりい)

神社の建物(社殿)も見どころのひとつです。

  • 拝殿は鎌倉時代に創建され、江戸時代に再建された貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。
  • 拝殿の奥には、とても珍しい形の「三ツ鳥居」があります。 真ん中の大きな鳥居と、左右に並ぶ小さな鳥居が一体になっており、このような構造は全国でもほとんど見られません。 このミツ鳥居の向こうに、神聖な三輪山があり、ここから山そのものを拝む形で参拝します。

※三輪名産品「三輪そうめん」の商品パッケージには、このミツ鳥居のラベルが貼られています。

拝殿にある三ツ鳥居

◆ 神社の周辺の小さな神社たち(摂末社)

大神神社のまわりには、ゆかりの深い神様をお祀りした神社もあります。

  • 狭井神社(さいじんじゃ):病気を治す神様。霊水が湧き出る井戸「薬井戸」があります。
  • 久延彦神社(くえひこじんじゃ):知恵の神様。勉強のご利益で人気。
  • 檜原神社(ひばらじんじゃ):伊勢神宮の元になった場所と伝わります(元伊勢)。
  • 貴船神社(きふねじんじゃ):水の神様をお祀りしています。

◆ 主なお祭り

大神神社では、古代から続く大切なお祭りが今でも行われています。

  • 鎮花祭(はなしずめのまつり)(4月18日):春に咲く花の力で疫病をしずめるお祭りです。
  • 大祓(おおはらえ)(6月・12月):半年のけがれを祓い、心身を清める健康と安寧を祈る神事です。
  • 御田植祭(おたうえさい)(6月25日):お米作りの始まりを神様に伝える、昔ながらの田植え儀式です。

大神神社は、ただの観光地ではなく、自然と人と神がつながる特別な場所です。三輪山を仰ぎながら、古代の人々がどのように神様を感じ、どのように生きていたかをぜひ肌で感じてみてください。

◆ 艸墓古墳

桜井には、人が古墳の中に築かれた埋葬空間である「石室」に入れるような古墳がいくつかあります。

  • 花崗岩の巨石を使用して構築されています。
  • 中にある石の棺「玄室」の側壁と天井石の隙間には漆喰が残されていました。
  • 玄室内には、竜山石で造られた中をくり抜いた家形の石棺が置かれていますが、石室の大きさに比べ石棺が大きいため、石棺を安置後に石室を構築したと考えられています。
  • 7世紀中頃の築造。国指定史跡です。

◆ 古いご神域

神道の大切にされている根本の考えは「畏れ」と「慎み」だと言います。 現在では神社にお祀りしている神様の名前はパンフレットや看板に書いてありますが、かつて神様の名前や由緒は簡単に話したり明かしたりしてはいけなかったそうです。 それほど神様を丁寧に、そして畏れを持ってお祀りしていたのでしょう。

この神域は古代の祭祀が行われていた場所がそのまま残っている場所だと言われています。 大神神社とも関わりの深い「出雲」の一族が住んでいた地域でもあります。

この地で一体どんな祭祀をしていたのでしょうか。

(写真)玉置神社 玉石社(奈良県十津川村)

◆ お土産

神道の世界では、生まれた土地の神様のことを「産土神(うぶすながみ)」と呼び、縁ある神様として大切にします。

一方、観光で友達に配る「お土産」と呼ばれる品ですが、ここに産土神と何か関係があると考えられます。つまり、お土産とは、訪れた土地の神様—「産土神」の力が籠った土地のものを配るという思いが込められているのではないでしょうか。

皆さんも是非、三輪の地のお土産をお持ち帰りください。

  • 「今西酒造」のお酒  三輪山から流れる水を使ったお酒「みむろ杉 辛口」  大神神社は酒造りの神様でもあります。  酒屋や酒造の軒先にかかる「杉玉」——多くの杉玉は大神神社で作られています。  とりで清き出す、三輪の酒  みむろ杉 辛口(MIMUROSUGI 特別純米辛口)
  • 三輪そうめん  大神神社の宮司の子孫である穀主(たねぬし)が、飢饉や疫病の救済を祈願し、神の啓示を受けて三輪の里で小麦を育て、そうめんを作ったのが始まりとされています。古来から保存食として大切にされてきました。  そうめんには定められた基準があり、その基準に合格したものが「三輪そうめん」と呼ばれます。  大神神社のミツ鳥居や、結束する束に鳥居のマークが描かれます。
  • 白玉屋榮壽「みむろ」最中  明治時代創業の白玉屋榮壽。  香ばしい最中と小豆がよく合います。奈良の定番お土産です。
酒屋や酒造の軒先にかかる「杉玉」
多くの杉玉は大神神社で作られている
みむろ杉 辛口